ケンブリッジ・クインテット

ケンブリッジ・クインテット 新潮クレストブックス

ケンブリッジ・クインテット 新潮クレストブックス

1949年にケンブリッジ大学クライストコレッジで食卓を囲みながら行われた5人の識者による人工知能についての議論をまとめたもの。5人の識者とは、小説家であり物理学者でもあるC.P.スノウ、遺伝学者J.B.S.ホールデイン、ノーベル物理学賞受賞者エルヴィン・シュレーディンガー、哲学者ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン、そしてコンピュータの産みの親ともいえる数学者アラン・チューリング。ものすごいメンツである。5人それぞれがその分野で事を成し遂げており、まさに知の巨人と呼ぶにふさわしい、らしい。私はシュレーディンガーチューリングしか知らないので何とも言えない。
話の核は、「考える機械をつくることができるかどうか」である。1949年というのはディジタルコンピュータが出来て間もなく、まだ人工知能という言葉すらない時代である。そんな時に、このような議論が行われていようとはさすがは大英帝国、と言いたいところだが、そんな議論は実際に行われていません。この本、フィクションですから。まあ、似たような議論はあったのかも知れないけど。
フィクションであることを念頭に置いて、この本における各人の役割は、スノウ=まとめ役、チューリング人工知能はできる派、ヴィトゲンシュタイン人工知能はできない派、シュレーディンガーとホールデイン=茶々を入れる役、という感じになっている。チューリングは十分な技術さえあれば人間のように考える機械を作ることは可能であると主張する。ここで問題となるのは、人間のように考えるとはどういうことかということである。人間がどのように考えるかというのはかなり難しい問題である。そもそも、機械が本当に考えているのかをどうチェックするのかといのも難しい問題である。機械が考えているフリをしているだけかもしれないし。もちろん、機械が考えているフリをしていても、人間が機械が考えていると感じられることができれば、その機械が考えているとすることもできよう。しかし、機械は本質的には考えていないのだから、やはり考えることはできないとも感じられる。ヴィトケンシュタインはまさにこの点から考える機械は存在しないと指摘する。ヴィトケンシュタインは、人間の思考は社会と深く結びついていると言う。機械が我々と同じ社会で生活していない以上、機械が考えているように見えても、それは実際に考えているとは言えないというわけである。ちなみに、私がこの本を理解できているかはすこぶる怪しい。なので、ここに書いてあることも合っているかどうか。
この本は、残念ながら絶版らしい。私は図書館で借りた。翻訳は1998年出版だから、それほど古くはない。文庫で出ている感じでもないし。やはり内容が特殊だからか。技術的な話よりも哲学が主であり、しかも、テーマは人工知能(人工知能だから哲学チックになってしまうとも言える)。人工知能はまだ見ぬ技術だけれど古臭く感じるから。もしかしたら、もう少ししたら文庫で出るのかもしれないけど。なんてたって、役者は今をときめく「国家の品格」の藤原正彦氏だ。「国家の品格」があんなに売れたんだから売れなさそうなのを文庫化してもバチは当たらないと思いますよ、新潮社さん。