章説 トキワ荘の春

章説 トキワ荘の春 (石ノ森章太郎生誕70年叢書シリーズ)

章説 トキワ荘の春 (石ノ森章太郎生誕70年叢書シリーズ)

トキワ荘』と聞いてもぴんとこない。そりゃあ,名前ぐらいは聞いたことあるし,マンガ家のいわば梁山泊みたいなところだったということは知っているけど,実際にどんな人がいたのかと問われれば,「石ノ森章太郎でしょ。藤子不二雄。あとは,えーと,誰だっけ?」ってな感じ。まあ世代が違うからね,しょうがない。そもそも先の二人(?)以外で知ってるのって赤塚不二夫だけだし。ああ,手塚治虫も入居してたんだっけ。
こんな感じにしか認識してなかったトキワ荘だけど,本屋で見かけたらなんか惹かれて,ちょっと立ち読みしてたら,気になる一節があったので買ってしまった。その気になる一節というのは,次のようなものです(P.164)。

ナニを思ったのか突然,安孫子素雄つのだじろうが“空手”道場に通い始めたことがあった。そりゃまた珍しいことを。しかしいつまで続くかナ,と思っていたら案の定,間もなくやめてしまった。だろうねェ,と安孫チャンに言ったら,そのやめた理由が「マンガを描けなくなりそー」だからだという。練習で疲れてしまってとか手が震えて,という肉体的なモノが原因ではなく,そのために,“健康”になり始めた精神的理由からだ,という。

なるほど,確かにそうだ。きちんと勉強するのって精神的にちょっと病んでるときだもんなあ,ぼくの場合も。『魔法先生ネギま!』の闇魔法習得の修行シーンみたいな感じだ。ちょっと違うか。
そもそも精神的に健康なときって現状で満足というか問題ないときだから,あえてなにかをやろうとは思わないのではないか。必要最低限のことはしても,それ以上にはやらない。べつにやる必要なんてないのだから。
しかし,精神的に不健康なら万事OKかと言うと,そうもいかないからむずかしいところ。精神的に病みすぎるとなにもやらなくなっちゃうからなあ。たぶん,生きることさえも。
ということで,うまく精神の健康状態を調節する必要がある。考えてみると,ぼく自信はこの調節は読書でおこなっているようだ。ここでおもしろいのは健康なときに読む本,病んでるときに読む本ってえてして同じことが多い。つまり,ある本が健康なときには負の方向に,不健康なときには正の方向に精神をもっていくのだ。この本もそういうタイプのような気がする。最近はすこぶる健康だったけど,この本を読んだらちょっと病んできたからw
調節は読書でやるとしても,実際に精神の健康状態を左右するものは普段の生活である。特に,一日の半分近く,もしくは半分以上を費やす仕事。ぼくの場合,仕事がおもしろかったり,仕事がうまくいったりして精神が健康になると,そうかんたんに精神は負になってくれない。逆はそうでもないんだけど。つまり,仕事で失敗しても落ち込みこそすれ,精神的にどうこうなることはないし,仕事がつまらなくてもそれほど精神が負になることはない(ただ,つまらないのに残業が多い,むだに雑用が多い,となるとどうなるかわからない。そんなことまだないけど)。でも,仕事に生き甲斐をもとめていた新入社員が仕事内容に失望したときの病みっぷりはけっこうヤバいね。同期にそういう人がちらほらいるんで。ちなみにぼくはそうじゃないので大丈夫です。
なぜかメンタルヘルスについて熱く書いてしまったが,本書を読んで一番に思うことは,自分もそういうところに住んでみたいってこと。同じ志を持つひとじたいが得難い存在であるのに,おなじアパートに,しかも複数もいるなんて,なんてすばらしい。とても会社の寮じゃ期待できないね(本来なら志は同じであってもいいはずなんだがなあ)。というか,あたえられることを待っているだけの人間には住む権利すらあたえられないんだろうなあ,きっと。